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始まりを否定してはいけない

原因の始まりよりも行動の始まりを意識する

始まりとは、開始。起源。原因や動機。発端。

していない状態から変化する状態になること。

始まりのメタファーは生まれる。動き出す。降り立つ。変化を促すイメージです。

終わりとは、終了。終焉。結果や行動。結末。

していた状態から変わらない状態になること。

終わりのメタファーは、死ぬ。止まる。旅立つ。固定化するイメージです。

例えば「どうしてダメなんだろう」と不安に思った時点で、「今はダメなんだ」という自己否定意識にあるということです。あるいは「現状を何とか良くしよう」と頑張っていたとします。ということは、「今の状態は悪く、これ以上の不運に巻き込まれたくない」という不安意識があるということです。

「不安だから、安心したい。安心しよう。」と思っていれば、今が安心してない=すでに不安が前提にあるので、不安であることが今具現化しているということです。言い換えると、「こうしよう」と思うときは「こうではない自分」であると認めていて、こうではない自分を具現化しているということです。

過去に対して「こうしよう」(始まりがある)ということは、未来へ向けて「自分を固定化する」(終わりがある)癖が知らず知らずに身についています。全てを整理しやすく隔て分ける癖がついているのです。これは、矛盾を生みます。

本来自然には、生も死も同時に存在します。動き出すことも止まることも同時に存在します。変化も固定も同時に存在するのです。どちらか一方だけに留まることはない存在なのです。必ず、変化し続ける存在です。ですから、自然にあるのは、絶え間なく繰り返される循環です。自然には始まりも終わりも存在しません。続いている「今」があるだけです。それを過ぎ去ったという時間の概念が比較すること意識させ、過去は変わらないのに今とのつじつま合わせをすることで矛盾が起きるのです。

私たちの存在は確率です。日々の選択から生まれる無限の可能性(可能と不可能)の存在。

それまでは波のように無限の可能性だったものが、観測する(意識がフォーカスする)ことで、有限の確定になり現象が決定します。ですから量子論的に解釈すれば、無限のパラレルワールドが存在している次元の重なりの中から、意識した世界を選んで具現化しているということになります。

今は波のように無限の可能性なのに、分離と孤立という分けることで「拒絶」しています。隔て分けることに調和は存在しません。合わさらなければ調和は難しいでしょう。私たちの意識は一生の中で区切られるものではありません。肉体を得るときに意識を忘れて生まれることで、自分が何者であるのかを自由に選べるのです。

完璧ではない存在、未熟である存在であるからこそ、生きていく限り、自分の能力を越えるアクシデントは起こります。この予測不能に不安を感じるのは仕方ないことです。それは、人間の生理的な反応です。そもそも人には一定の落ち着いた状態を維持したい(Operate)生理的欲求があります。自分の安定の枠から逸脱する(Destroy)ことが起きたとき、不安を感じるのです。

「ダメだ」と思った時点で、「今はダメ」を意識しているので、無限のパラレルワールドの重なりの中から、「今はダメ」の世界を選んで具現化しているのです。

そこから抜けるためには、そう感じている自分に気づくことです。

ダメだとこうしようと「自分を否定していること」に気づかなければいけません。

一段落するとき、こんな言葉を使ってませんか?

  • つまらない
  • 苦しい
  • 疲れた
  • しまった
  • すみません

まずは言葉を変え、その変化を喜んで受け入れましょう。固定させない変化させ続けることこそ自然の流れです。否定的な感情は生きていく上での防衛反応として必要なのかもしれませんが、肯定的な感情さえも感じなくなってきます。

  • ✖つまらない〇期待します
  • ✖苦しい  〇充実してる
  • ✖疲れた  〇やりきった
  • ✖しまった 〇おめでとう
  • ✖すみません〇ありがとう

自分を変える(Generate)ことは、自然の移ろいのように自然な循環そのものです。私たちは常に変化の最中に存在するのです。誰かに否定されても、評価されてもそれが最終的な宣告ではありません。変化の途中にある「お知らせ」、メッセージです。

生きること、それは変化し続ける(Generate)こと。

生きること、それは変化を維持(Operate)すること。

生きていれば、未体験の逸脱(Destroy)は必ず起こります。

自分の枠が揺さぶられるとき、その逸脱は変わる時期に来ているということです。古い枠を壊し、あるいは殻を破り、あるいは繭から抜け出て、新たな自分を創造(Generate)しましょう。

鏡(かがみ)をみるとその中に映るのは自分(我エゴ)があります。「が」を捨てれば、自然の流れを体験することができます。自然の流れとは、いつも目の前に在って目に見えないもの、私たちに閃きとエネルギーを与えてくれる自然の営みそのものです。

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