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希望をもって落ちる

自然治癒力を高めるために

治癒とは、健康な状態と病的な状態を交互に繰り返していている最中に、このバランスが崩れてしまった状態を元に戻そうとする反応です。
これは本来生体に備わっている力で、自然治癒力とよばれます。

 

なぜ、治癒力が低下して、不健康になるのか?

私たちは、何かのグループに属しています。そのグループが自分のやりたいことを反映するグループならば問題ありません。そのグループが自分のやりたくないことを反映するグループか、やりたいことを反映しないグループだったとき、そのグループに引きずられて翻弄されてしまいます。

人間は、野心と向上心と自由を望むのが性質ですから、そのグループの中で弱い立場であれば攻撃を受けないように能力を隠し本心を隠し、そうでないように思わせるために心が無意識にバランスを取ろうとします。また、やりたいことを制限されるとその不本意な服従に抵抗しようとするのが自由な希望に反しますから、自分から思い込んでしまうくらいのやる気のなさと自信のなさ、そんな素振になるのです。

そんな野心も向上心も能力も何もないと思い込んでしまうくらい自分を隠せば、「存続したい」「消滅したくない」という攻撃される絶命の危機を避けることができるからです。

肉体的・細胞的なことを言えば、本当にやりたいことを我慢して、不本意な無理な生き方を続けていると、交感神経の過緊張が起きます。交感神経の緊張が、血管を縛り上げ、血流障害を引き起こして低体温になります。これが長年に渡って続くと、細胞は低体温と低酸素にさらされますから、ミトコンドリアの活動を抑えて、そして、急激的な分裂細胞に移行します。さらに顆粒球が増加しますから、細菌が多いところに過剰に反応して胃潰瘍や痔などの炎症を起こします。つまり、慢性的にからだに溜まった毒素を排出する「防御的」生体反応(解糖系反応)という強制的な毒出しを始め、からだは乱れます。

低酸素や低体温によって起こるミトコンドリアの機能低下は、別の言い方をすると、20億年前の解糖系生命体に戻って、生き残りをはかる人間の本質なのです。

「過去に囚われる」と生きづらいので、それに耐えて生き残るために細胞レベルで「先祖帰り」してまでも、「存続しよう!」「消滅しないようにしよう!」とするのが人間の生存機能なのです。

そして自然治癒力の低下した人の多くは、自責の念に苦しみます。

「なぜ、あんなことをしちゃったんだろう」「あれさえなければ、どんなにうまくいったことだろう」などと思い出しては苦しみます。これは非常に野心と向上心があることを示しています。つまり、もっと良くなりたい、成功したいという気持ちが強いのに、今までそうしなかったと自分を責めることで自然治癒力を弱め、状況とこころのバランスをとるのです。

その状況を維持できたはずだ、あるいは自分はこんな人間ではないというプライドが自然治癒力を弱め、状況とこころのバランスをとるのです。

このときには、その相手と関係性を持とうとしませんし協力もしません。ただ居心地が悪く、そこには恐怖ばかりを感じ、忘れたいというパニック状態になっています。

ですから、豊かになってはいけない、仲間と楽しんではいけない、調子が良いと悪いことが必ず起きると思い込んでしまうのです。そう思わせているのは周りの人間(あなたが作り出した周りの人の人物像という記憶)であって、あなたの無意識はそのことで悩んでいます。

人は自分を含めて、傷つけられたり、苦しめられたりしたことは良く覚えていますが、相手を傷つけてしまったことや、相手を苦しめたことに対してはあまり自覚がなかったり、過去のことだからと気にしていなかったり、忘れていたりします。

被害者としての自分を意識しやすく「相手を許さない」と思いやすいようです。

このとき、何かを嫌うことが罪悪感となり、罪悪感の中にある苦手意識が憎むという感情に、いつの間にか変えてしまうのです。

被害を受けたという事は、どこかで無意識的に自分自身が加害者であったこともあるのだという事を理解し、相手や自分自身両方を許すことができれば、このようなどちらか一方の軸に生きると決めた自分自身を許すことができ、制限していた感情や狭い価値観といった自分ルールがなくなるのではないでしょうか。

「お金がない」の裏を返すと豊かになりたいですし、「あいつは嫌だ」の裏を返すと良い仲間に恵まれたいです。「具合が悪い」の裏を返すと、いつも調子よくありたいではないでしょうか。

その抱えている問題の裏には、本当は望んでいるものが潜んでいます。

実現が低下するのは、希望がなくなるということ。

治癒力が低下するというのは、愛がなくなるということ。

自然治癒力は、「愛」から生まれます。

では、愛ってなんでしょう?

愛のはじまりは恋です。

「恋に落ちる」といいます。

「恋に昇る」とは言いません。

恋にも愛にも落ちるという概念があります。

実は、落下と創造には深いつながりがあります。

この落ちるというリスクを選ぶということは、

生命の存在に必要不可欠なものです。

その根源的なものは「存続しよう」「消滅しないようにしよう」という想いです。

落ちるということは、身をゆだねることであり、コントロールすることを放棄することです。

恋に落ちるとは、相手に身をゆだね、自分を放棄した結果です。

「私は私をあなたに捧げる」

「私を好きなようにして」

それは、一見馬鹿げたように見える行為ですが、この世で理にかなうのは全てを受け流すことであり、自身を投げ出し放棄することです。自分をコントロールすることではありません。

愛とは、自分をコントロールすることを放棄して相手に身をゆだねることです。

恋に落ち、愛が育まれ、生命が生まれる。

これが完全な自然治癒力の大きな流れです。

変わりたいのに変われない人は、本当に望んでいる「私を捧げる」ことを選ぶことなく、「世間的にはこれが無難」「社会的にはこっちが普通」という自分自身で作り出した制限の中から選択しているので、自分自身が望んで選択しているようにみえて、最初に「私を捧げる」ことを選択していないのです。自由のない制限は抑圧的で不平や不満を生みますから、安心しているようでモヤモヤしたりイライラしたり、安定しているようでクヨクヨ後悔して悩んでしまうのです。

ですから、自分に対しても自分を捧げ、身をゆだねることが自分を愛することになります。自分を愛するように相手に身をゆだねることです。

言い方が乱暴ですが、身をゆだねるとはありのままの自分を受け入れるということです。自分が望むものは何かを考え、「何のためにするのか」を理解していることが「鍵」になります。

「何のために」を積みあげて、意味を深めていくためには、信念をもって行動に移すことです。

もっと具体的に言うと、仲間と生きるうえで必要なものとして、魅力的に思うのは「正直さ」「素直さ」「純粋さ」「謙虚さ」です。

自然治癒力は外から与えることはできません。自分で身に着けるしかないのです。

ですから、病気になった時点での自然治癒力を含め、その人の回復力・抵抗力・体力は、そして人生の状況は、生活してきた環境と習慣によって決まります。環境と習慣を変えるために行動すること、自分を変化させるために必要なのは「愛」です。

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