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カチンとくる人

自分勝手な人

せっかちな人

厳しい人

批判する人

泣きじゃくる人

うわべでかわす人

逃げていなくなる人

ふざけ癖のある人

差別する人

そういう人を見て氣に障るのは、その人が「わざと気に障るように見せつけて行動している」のではなく、行動を見た自分がそう感じているということです。なぜそう感じるのでしょうか?

それは、その気に障る行動が「我慢していること」だからです。

なぜ我慢しているのかというと、その反対の行動が自分にとって良い行いであると思い込んでいるからです。「本当はやってみたいでも、それは良くないことだ」と抑え込んでいる葛藤があるのです。

自分勝手な人を見て、自分は寄り添ったほうが良いと思っているけれど、「献身的なことに犠牲的なものを感じ、自分勝手に自由を感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、自分勝手な人を見ると普段から「自由」を我慢している自分が癪に障る。

せっかちな人を見て、自分はのんびりが良いと思っているけれど、「ゆっくりすることに融通が利かない頑固さを感じ、せっかちに要領の良さを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、せっかちな人を見ると普段から「要領の良さ」を我慢している自分が癪に障る。

厳しい人を見て、自分は優しいのが良いと思っているけれど、「情け深さに甘さやいい加減さを感じ、厳しさに我の強さを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、厳しい人を見ると普段から「我の強さ」を我慢している自分が癪に障る。

批判する人を見て、自分は傾聴して同意するのが良いと思っているけれど、「容認することに消極性を感じ、批判することに強引さを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、批判する人を見ると普段から「強引さ」を我慢している自分が癪に障る。

泣きじゃくる人を見て、自分は自制するのが良いと思っているけれど、「耐えることにやせ我慢を感じ、泣きじゃくることにありのままを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、泣きじゃくる人を見ると普段から「ありのまま」を我慢している自分が癪に障る。

うわべでかわす人を見て、自分は正直なのが良いと思っているけれど、「赤裸々なことに無遠慮さを感じ、うわべでかわすことにしたたかさを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、うわべでかわす人を見ると普段から「したたかさ」を我慢している自分が癪に障る。

逃げていなくなる人を見て、自分は立ち向かうのが良いと思っているけれど、「盾つくことに不器用さを感じ、逃げていなくなることに立ち回りの上手さ潔さを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、逃げていなくなる人を見ると普段から「立ち回りの上手さ潔さ」を我慢している自分が癪に障る。

ふざけ癖のある人を見て、自分は真剣なのが良いと思っているけれど、「ひた向きなことに必死さを感じ、ふざけ癖に茶目っ気を感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、ふざけ癖のある人を見ると普段から「茶目っ気」を我慢している自分が癪に障る。

差別する人を見て、自分は平等にするのが良いと思っているけれど、「公平なことに偽善さを感じ、差別することに都合の良さを感じてしまう」ので、全然関係ない場面で、差別する人を見ると普段から「都合の良さ」を我慢している自分が癪に障る。

私たちは誰でも多面性を持っています。

家族に見せる自分、知り合いに見せる自分、初対面の人に見せる自分、職場で見せる自分。喜ぶ自分、満たされた自分、空しい自分、悲しい自分、卑下する自分。そのどれもが本当の自分であり、様々な面があるということです。様々な場面で変わるので、気に障る相手があなたの「抑圧している影の部分」を「投影」することが多々あり、私たちの感情が刺激されるのです。

本当はあなたにも、

自由に

要領よく

我を強くし

強引に

ありのままで

したたかに

立ち回りの上手さ潔さで

茶目っ気をもって

都合よく

過ごしたい願望があるはずです。

それができないから苛立つのです。

できないという足枷「思い込み」は、小さいときに受けた躾や経験が基になっています。

そうしたい本心を隠して、そうしたくないと思えば思うほど、平気でできる相手を許せないのです。許せない相手に抑圧された自分を見て、自分自身を「見下す」のです。

カチンときた時点で「私はあいつのせいで氣分を害した。どうやって奪われた氣分を奪い返そうか?」と相手のせいにしているので、相手にパワーがあることを無意識に認めていて、無意識のうちに相手は加害者、自分は被害者になっています。この状態は自分がパワーの源である「自然」と繋がっていることを忘れている状態です。

不調を感じたときに許すべき相手を探してみてください。

その許しがたい相手とどういう関係を築いていけるか?ということが大切です。

人は何時でも変われます。

変わろうと思ったときには、もう躾や過去の経験は意味を失くしています。

変わることこそ自然の移ろいそのものです。いろんな経験をしていいですし、こうでなければならないという観念を捨て去ってもいいのです。新たな自分になることは自然なことなのです。

私たちは「自分がしたいこと」が現実化するまでの過程を楽しむために、ここ地球に生まれました。それは自ら自由を選び、創造し、自分を表現することです。その中で魂が経験します。

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