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反抗は自由への第一歩

誰しも「自由」を望んでいます。

肉体からの自由。

精神からの自由。

お金からの自由。

人は野心と向上心と自由を望むのが性質ですから、属しているグループの中で弱い立場であれば攻撃を受けないように能力を隠し本心を隠し、そうでないように思わせるために心が無意識にバランスを取ろうとします。また、やりたいことを制限されると自由な希望に反しますから、その不本意な服従に見合う抵抗をします。

また、新たな集団に属すときあるいは社会に出たときに、自分の価値観が揺らいだり新たな価値観を見出したりしたときに、それまでの古い価値観と決別するための抵抗という反抗が自由という新たな自分を生むのです。それは、多くは自分ではない親から引き継いだ「生き方」という枠(躾)に対する反抗です。誰しも自分が変化するとき、自分の価値観が新しく上書きされるとき、何らかの抵抗が生まれます。逆らう。それが無意識にある本能的な「自由」への渇望です。

私たちは、日々の中で様々な感情を経験し、記憶します。それがストレスに感じる体験であったり上手く対処できない経験だったときに、またかというデジャブのような繰り返す感覚になったときに無意識にその先の経験を避け、自分が落ち着ける経験の方で安定しようとします。もちろん得意不得意があるからですが、自分ではどうすることもできない大きな力に圧倒されたときに、経験が不足しているので不安になり、制御することが難しいことから逃げるのです。

例えば、自己主張で場が荒れる(周囲がドン引きする)と感じることを繰り返し体験した場合、自己主張がだんだんと苦手になっていきます。なぜ場が荒れるのかを考えるよりも、場の雰囲気の緊張をほぐすために自己主張を避け、和ませることで場を持たせようとします。自分を表現する場面で心が痛むことが多く、激しい体験に関わりたくないという気持ちから、本当にしたい自己表現を避けて経験することになるのです。

したくない経験を体験することで、少しずつ自分を表現することを学んでいるのかもしれませんが、なぜ場が荒れるのかというストレスに感じる根っこの体験を避け続けるとすれば、本当にやりたいことを避け続け消極的になっていきますから、生きづらくなってきます。そして、不測のピークが起きたときに、思考や行動が止まってしまいます。(3Fという逃げる「フライ」、戦う「ファイト」、固まる「フリーズ」)

実は困難を感じること嫌だと思うことには、なぜそうなるのかという気づきを与え、そうならないためにどうすればよいのかを考えるために、自分が理解するための経験を積んでいく「目覚め」(覚醒)の要素が隠れています。

「こんなはずじゃなかった」、「予測していた通りじゃない」、「また自分のリズムを崩される」と繰り返し思いこんでいるとストレスに感じて、イライラします。でもここまで成長できたのはリズムを崩されたからです。その崩れたリズムを持ち直す方法を知り抜いたからこそ成長があるのです。

慣れていない経験からは、その場をコントロールするのはなかなか難しいですが、より多く知り抜いた場であれば、そんなに苦痛に感じたり嫌だと思ったり、驚いたりすることはないはずです。

逃げるのではなく、避けるのではなく、なぜそうなるのかを考えたときに、人生が回り始めます。場が荒れるのであれば、自分が関わり方を変えてみる。言い方を変えてみる必要があります。

他人の間違いを見る目で、まず自分を見なければなりません。

批評家になる前に、実践者であれです。

自分の庭の雑草を抜くことなしに、他人の庭の雑草の抜き方が良いだの悪いだのその人の懸命さを見ることなしに、自分の行動をほったらかして他人のやり方ばかり批評しても軋轢を生むだけです。

自分の要求や催促を子供や相手に促すときに、それが相手を直したいと思っているものだとして、それが自分についても当てはまるのであれば、まずは自分から直すべきです。またそうでなくても直接訴えると相手は不自由を感じ、反発します。

即「やっちゃだめ」と言うのではなく、「やりたい場所をさがしているだけ」なのか、「やっている行為が肉体バランスをとるために反応している」のかまずは観察することです。

不幸や憂鬱、障害と感じることは人生の大きな流れでみるとその時には未体験なので、自分をただ苦しめる要素であることは間違いないのですが、そこにどう関わるかで人生の自己実現が大きく変わっていきます。個人の楽しみだけを優先させるとその先の分かち合うという楽しみに進んだときに、励みや目標を失いますし、分かち合うことばかりを優先させ過ぎれば、個人の楽しみを犠牲にするといった偏りが起きます。「いったい何のために」という疑問と「自分が何をするべきか」という目標のバランスが取れたときに「自分軸」が生まれるのではないでしょうか?

私には立ち向かうほどの体験もスキルもないと絶望すれば、希望は確実になくなります。自由への衝動と変化へのチャンスを感じたときこそ、自分の世界を良くする時期なのです。

分かち合うという社会性を超越して「自由」になれたときに、この世を去るまで人生を楽しめるはずです。この世では、場の経験から自分の価値に置き換えるということと、決められたことを確実に行うということと、変化を望んでいる人に訪れる「不意打ち」と変化を望んでいない人に訪れる「不意打ち」があるということです。

「不意打ち」が必ず訪れるものならば、傷口が少しでも小さくなるように心構えという経験があると楽です。そして、なりたい自分を想像したときに「ふさわしい自分になる」ことが自分の望みを叶える基本になります。自分を嫌っていたり、卑下していたり、自分は素敵ではないと思っていたら、希望は叶わないのだ、無理なんだと心のどこかで思ってしまいます。「不意打ち」どんとこいとなれるように自分を磨きましょう。それが自由になるための抵抗の第一歩です。

坂村真民の「幸せの帽子」という詩があります。

すべての人が幸せを求めている

しかし幸せというものは

そうやすやすと

やってくるものではない

時には不幸という

帽子をかぶって

やってくる

だからみんな逃げてしまうが

実はそれが幸せの

正体だったりするのだ

わたしも小さい時から

不幸の帽子を

いくつもかぶせられたが

今から思えば

それがみんな

ありがたい

幸せの帽子であった

それゆえ神仏の

なさることを

決して怨んだりしてはならぬ

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