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偏見 Bias「自由と平等」

いつもそばにある色眼鏡

私たちは日々選択の中で生きています。

その選択の元になるのが、自分の物差しであるバイアス(偏見)です。

目指すものが同じであるとき、足並みを揃えなければ目指せません。

「できる人」が足を引っ張られ、やる気を失くします。

「できない人」もなんとか普通になろうともがき苦しみます。

資産すべてを計画し、統制を図り脱落者を出さないことを最優先した社会を平等主義といい、一見穏やかで争いがないように見えて、人々を束縛する閉塞感があります。

目指すものが異なるとき、競争がなければ目指せません。

「できる人」と「できない人」の格差が大きくなって不満がでてしまいます。

資産のあれもこれもなんでも最優先した社会を自由主義といい、いいことでも悪いことでもすべてが許されるという、人々を惑わす憂慮感があります。

自由すぎると、コントロールができなくなり、信じられなくなるので不安になります。

平等すぎると、自分を制限し我慢が生まれるので、不平不満でやる気がなくなります。

そしてこの物差しは、私たちそのものを苦しめます。

その物差しは何でできているかというと、自分と同じか?否か?という記憶の世界です。

私たちはこの『自分と「同じか?」「否か?」』の物差しを使わずに、捨てなければなりません。

あの人のほうが自分より恵まれているのはどうして?

なんで自分だけが貧乏くじばかりなのか?

自分がやってて損だから(得しないから)あの人が悪い、私が正しいと思ってしまうのです。

自分と違う「だらしない人、いい加減な人にイライラする」と思うのは自分。

そう思わせる相手は、だらしないと思っていないし、いい加減でもないのです。

それなのに自分はそれが嫌で、一生懸命きっちりしようとして悩み、苦しむのです。

自分と違う「自分でしない人、気付かない人にイライラする」と思うのは自分。

そう思わせる相手は、だれでも同じだと思っているし、他のことに興味があるだけです。

それなのに自分はそれが嫌で、率先してやることに疑問があり、苦しむのです。

これらの原因は、相手ではなく自分にあります。

この「問題だ」と思っているものは、本当にあなた自身の問題でしょうか?

あなたがただ「感じた」だけであって、相手は問題に思っていないし、感じていません。

自分以外の問題を自分のことのように問題にしてはいけません。

あなたが引っ掛かった事柄が「誰のものなのか」明確にする必要があります。

要は、自分が本当に向き合うべき課題を明確にするために、課題の分離を行うのです。

分離の結果、あなたの課題がはっきりしたら、あなたは自分の課題とだけ向き合います。

また、今まで悩んでいた問題が実は「他者の課題」なのだと分かったら、あなたはそのことに頭を悩ます必要はありません。

生き死にに関わらないのであれば、対応しなくてもよいのです。

生き死にに関わらないのであれば、放っておいてもよいのです。

それでも関わると自分のレベルを下げるので(合わせるので)苦しみます。

人と違って生まれてきたのに、わざわざその人と同じになろうとして「選択した結果」に苦しむのです。自分の価値を下げる必要はありません。損か得かを考える必要は、ないのです。これを大きなお世話、おせっかいといいます。

自分の機嫌を損ねた相手の悪口を言っている時点で「その人にこだわってレベルを下げている」ことに気付きましょう。悪口はスッキリすることではなく、苦しむことになるので不毛です。

あなたに敬意を払わない人に、敬意を払う必要もありません。

あなたのことが嫌いな人を、好きになる必要もありません。

あなたを大切にしない人を、大切にする必要もありません。

でもその人たちにも、あなたと同じように人生つまり、生き方があります。

価値観は人それぞれで、満足するレベルも人それぞれなのですから。

人は、生まれながらに先祖が異なります。あなたの爺さんにもあの人の婆さんにもそれぞれにご先祖がいらっしゃいます。つまり、遺伝子レベルで異なるということです。

そして、この遺伝子レベルの違いは、風土や生活習慣の違いを生じます。それが時代も合わせた背景となり、記憶や体験も異なっていくのです。つまり、これが「個性」であり、双子の兄弟であっても同じ価値観ではないのです。

あなたを苦しめる人つまり、肉親であれ、兄弟であれ、子供であれ、夫婦であれ、職場の人間であれ、必ずあなたの感情に触れてきます。

からだの距離は近くても、こころはある程度、距離を置いて接することが大切です。このとき重要なことは、礼儀礼節をもって接することです。

礼儀礼節とは、人が正しいと思うことはそれぞれですから、自分が正しいことを押し付けるのではなく、自分が正しいと思うことを自分で行なうということです。つまり、自らがその姿を見せること。人を自分の言葉で正すのではなく、自らが身を律し正しい行いを行うことをいいます。

自分の一番大切なこころを守るためにも人間関係を拒絶するのではなく、自分が苦しまない距離を置くことが必要なのです。

こころの距離を保つことで、自分の感情の変化でこの距離も変わります。

誰にでも分け隔てなく施そうと思っても、経済的に無理が起こります。

また誰よりも稼いでも、困っている誰かを助けたくなるのです。

自分の未来に恐れを抱くという事は、その人がどれだけ視野が狭いか、生きている世界が狭いかということの顕れです。変化する未来をイメージできないということですから。変わらないことに、しがみつくことは愚かなことです。なぜなら、変化することが自然の摂理だからです。

ですから、選択の元になる物差しは自分と同じか?否か?ではなく、自分を強くするものは何か?自分を弱くするものは何か?が大切になります。

自分を強くする習慣や行動だけをし、体験すれば生き方が変わります。弱くする習慣や行動はやめましょう。

そして同じか?否か?という物差しは、相手ではなく、自分のためだけに使うのです。同じ物差しの人を探すのもやめましょう。同じ人はいませんし、似たような人というのも幻想にすぎません。時間がもったいないですから、貴重な時間は昨日の自分、明日の自分に使いましょう。

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