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人は一度死なねばならない

この世の去り方

私たちは季節を過ごす中で視覚や聴覚といった五感から感じ取りながら、在るということは無くなる(壊れる)ということであり、熱いということは冷めることであるというこの世の理を、自然の中から経験し、何となく知っています。

動かなくなった生き物の死骸などを見て、自分が生きているということを自覚したときに、「死」というものが何なのかを考えたことがあると思います。また、身近な人の死や自らに降りかかる死。死とは何なのでしょうか?死の瞬間とは?暗闇なのか?痛いのか?何も感じないのか?

今自分に起きていること、毎日の暮らしそれが「生」です。痛みも心地よさも悲しみも楽しみもすべて意識できる「生」でありそれが停止し、そこに二度と関与できない状態「死」が身近になったとき恐怖を感じずにはいられないのです。

ですから肉体的な死には恐怖しかないのです。

この死を考えるのは人間だけです。私たちの多くは永遠の暗闇に閉じ込められるのが死後の世界だと思っています。でも、心臓を動かすことを学ばなくても生きているように、「死後を生きること」もないのです。

生きている人も、毎夜小さな「死」を迎えています。眠りにつくと個としての意識は失われて、より大きな集合的無意識や祖先、遠い過去と同質の存在となって、そこからエネルギーを吸収しつつ力強くリフレッシュできます。と同時に家族の結束を確認しています。

意識のない眠りから「死」という二度と目覚めることのない永遠の眠りの前はどんな世界だったのか疑似的にじっくり時間をかけて考えてみると、生まれた(目覚めた)瞬間です。つまり意識することが経験であり、経験そのものが一人一人の意識なのです。なので、意識があれば死後は誕生と同じことしか起きないはずです。

大きな観点でじっくり考えると、日常の行動の中にこそ死は存在しています。

死とは決別、終わり、区切る概念です。

私たちは知らず知らず死を体感しているのです。

誕生の瞬間は、母胎依存の死。

成長する瞬間は、その瞬間の養育の死。

眠りにつく瞬間は、覚醒の死。

食事の瞬間は、満たされないことの死。

朝の目覚めの瞬間は、眠りの死。

何かを始める瞬間は、それまでの行動の死。

後悔する瞬間は、希望の死。

怒りの瞬間は、ユーモアの死。

悲しむ瞬間は、喜びの死。

切なさの瞬間は、楽しみの死・・・

この世は陰と陽であり、それは絶えず変化して入れ替わっています。

太陽は昇って沈みます。沈むことでまた昇ってきます。太陽が沈み闇が生まれ、太陽が昇ることで光が生まれます。朝は夜の死を迎え、夜は日中の死を迎えます。闇の世界、太陽が沈んだ世界、死後の世界を意識することでそれらだけでなく、光の世界、太陽が昇った世界、生まれた世界をより深く考えることができるようになり、このことがわかれば自然の摂理ももっと身近に感じられるはずです。

私は猫を三匹飼っておりますが、猫は自分の死を考えていません。仲間の死を悲しむことはあっても、自分の死を悲しんだりしません。なぜなら、その一瞬一瞬を思いきり自分らしく生きているからです。今ご飯が食べられるかどうか?今遊んでもらえるかどうか?思いきり遊ぶ、思いきり興味を持つ、思いきり寝る、思いきり嫌がる。今やりたいことをやりきっているのです。

失敗しても

誰かが亡くなっても

思い通りにいかなくても

お金がなくても

環境が変わっても

世の中が変わっても

相手が心変わりしても

病気になっても

不調になっても・・・

何があっても自分を生きるということ。自分を生きていれば何があっても満ち足りているので、死などどうでも良くなるのではないのかなと。生きることに集中し、死ぬ瞬間まで自分を生きる。これが「自分を信じる」ということなのだと思います。

ですから「生まれ変わる」という意識は、精神的な死によって芽生えることのほうが多いのではないでしょうか?

新しく成るには、それまで成っていたものから死ななければならないのです。

そして生き続け、新たに成っていくことが大切です。

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